
こんにちは。メガネが書くブログ、運営者のmochanです。
最近、2026年に公開がされている映画「マイケル」についての話題を見ていて、ふと気になったことはありませんか。
映画の構成では、1984年のビクトリツアーから1988年のBADツアーへと物語が一気に飛ぶのですが、ファンとしてはその空白の期間に何があったのか、すごく気になりますよね。
歴史的な大ヒットとなったアルバムのリリースから次作までの約5年間は、世間から見れば新譜を待つだけの時間だったかもしれません。
しかし、マイケルジャクソンのスリラーとBADの間は、彼の人生において非常に重要な期間でした。
むしろ、肌が白くなった理由や外見の変化、家族との関係の変化など、その後のキングオブポップとしての彼を形作る信じられないほど激動の出来事が連続していたのです。
今回は、世界最大のポップスターに起きた知られざるエピソードや、彼の内面や音楽性がどう進化していったのかを、分かりやすく整理してお伝えしていこうと思います。
当時の彼を取り巻くメディアの反応や、未実現に終わった驚きのコラボレーションの話など、思わず誰かに話したくなるような裏話もたっぷり詰め込みました。
この記事を最後まで読んでいただければ、あの時代の彼の行動や作品に込められた本当のメッセージが、より深く理解できるようになるはずです。
記事のポイント
マイケルジャクソンのスリラーとBADの間の出来事

世界中を熱狂させた大ヒットアルバムの後、彼は表舞台から少し距離を置いているように見えましたが、プライベートでは劇的な変化が起きていました。家族との関係性の変化や、彼自身の心身にふりかかった大きな試練など、この時期に彼が経験した衝撃的な出来事の数々を詳しく解説していきますよ。
家族からの自立と新たな拠点の構築

この時期の彼を語る上で絶対に外せないのが、家族からの精神的・経済的な自立です。
子どもの頃から「ジャクソン5」そして「ジャクソンズ」として、兄弟や父親のジョー・ジャクソンさんと二人三脚で歩んできたマイケルですが、1984年12月のビクトリー・ツアーの最終公演で、ついにグループからの脱退を表明しました。
父ジョーからの自立
これはただの「グループ脱退」ではなく、長年ジャクソン家の活動を牛耳ってきた父ジョーさんの影響力から離れる、という大きな意味を持っていました。
大成功を収め、莫大な富と交渉力を手にした彼は、もう誰かの指示で動く子どもではなく、一人の独立した大人のアーティストとして歩み始めたんですね。
ヘイヴンハーストの大改築
その自立の象徴とも言えるのが、カリフォルニア州エンシノにあるジャクソン家の邸宅「ヘイヴンハースト」です。
もともとはお父さんが1970年代に買った家だったのですが、80年代初頭にマイケル自身がこの家を買い取ったと言われています。そして、彼自身の稼いだお金で、この邸宅を大規模に改築していきました。
敷地内に映画館を作ったり、動物たちが暮らすスペースを設けたり、キャンディ・ショップ風の設備を作ったりと、まるで夢の国のような空間に作り変えていったんです。これは後の「ネバーランド」の原点とも言える場所ですよね。

失われた子ども時代を取り戻す場所
小さな頃からショービジネスの世界で働き詰めだった彼にとって、このヘイヴンハーストは「自分が理想とする世界」を自分の力で形にした最初の場所でした。彼が家族を養う中心人物になったことを証明する、とても大切な空間だったのかなと思います。
音楽ビジネスにおける覇権の確立

アーティストとしての自立だけでなく、ビジネスマンとしてのマイケルの才能が開花したのもこの時期です。
単なる「歌って踊るスター」から、「音楽産業の仕組みそのものを動かす権力者」へと変貌を遂げていきました。
ポール・マッカートニーとの会話
ビジネスに目覚める大きなきっかけを作ったのは、皮肉なことにあの元ビートルズのポール・マッカートニーさんでした。
二人は「The Girl Is Mine」や「Say Say Say」などのヒット曲でデュエットをしてとても仲が良かったんですが、ある日ポールさんが、「自分で楽曲の出版権(権利)を持つことがいかに莫大な利益を生むか」をマイケルに教えたそうです。
これを聞いたマイケルは、「なるほど、音楽ビジネスの本当の鍵はそこにあるのか!」と強く興味を持つようになったんですね。
ATVカタログの買収とポールとのすれ違い
そして1985年、ビートルズの多数の楽曲の権利を含む「ATVミュージック・パブリッシング」という会社(カタログ)が売りに出されます。
マイケルは優秀な弁護士たちと動き、なんと約4,750万ドルという巨額でこのカタログを買い取ってしまいました。ポールさん側も買いたかったそうですが、マイケルの資金力と決断力が上回った形です。
ビジネスと友情の狭間で
この買収によって、マイケルは音楽業界で揺るぎない力を持つことになりました。しかし同時に、ポールさんとの関係には深い溝ができてしまいます。自分が作った曲の権利を友人が所有し、さらにはCMなどで使われることに、ポールさんは強い不満を持ったそうです。マイケルが冷徹なビジネスマンの顔を持つようになった象徴的なエピソードですね。
撮影中のトラブルと健康への影響

華々しいビジネスの成功の裏で、彼の身体には深刻なトラブルが襲いかかっていました。
ここからの話は、彼の人生を語る上でとても重要で、少し痛ましい内容も含まれます。
ペプシCM撮影時の大事故
1984年1月、ペプシコーラのCM撮影中に悲劇が起きます。
ステージで火花を散らす特効(パイロテクニクス)が予定より早く爆発してしまい、マイケルの髪に火が燃え移ってしまったんです。この事故で彼は、頭皮に第2度から第3度の重度の火傷を負ってしまいました。
当時の映像を見たことがある方もいるかもしれませんが、本当にヒヤッとする恐ろしい事故でした。
慢性的な痛みとの闘い
この火傷の治療は非常に痛みを伴うもので、彼が鎮痛剤(痛み止め)を使用し始める大きなきっかけになったと言われています。
のちに彼を苦しめることになる薬の問題は、この事故だけが全てとは言えませんが、慢性的な身体の痛みと精神的なストレスの歴史を語る上で、この出来事が大きな転換点であったことは間違いありません。
外見の変化に対する世間の誤解

80年代半ばから後半にかけて、世間が一番ざわついていたのが「マイケルの外見の変化」についてではないでしょうか。
タブロイド紙などは「白人になりたがっている」「整形依存だ」と面白おかしく書き立てましたが、現実はそんな単純なものではありませんでした。
尋常性白斑という病気
マイケルはのちに、1993年のテレビインタビューで公に語っていますが、彼は「尋常性白斑」という皮膚の病気を患っていました。これは、皮膚の色素(メラニン)が失われて、体に白い斑点が広がっていく自己免疫疾患の一種だと言われています。白斑そのものについては、米国の公的研究機関も「皮膚の色素や色が失われる慢性的な自己免疫疾患」と説明しています(出典:NIAMS『Vitiligo』)。
80年代半ば、「ウィー・アー・ザ・ワールド」の頃はまだ濃い肌の色を保っていましたが、これもメイクで色のむらを一生懸命隠していた可能性が高いそうです。
メイクアップと治療によるトーンの変化
しかし、白斑の症状が全身に広がってくると、元の濃い肌色に合わせて全身をメイクで塗りつぶすのは物理的にも難しくなってきます。
そこで、最終的に残った色素を脱色して、全体のトーンを均一の明るい色にするという治療法が選ばれました。だから、決して「肌を白くしたかった」わけではなく、病気に対処するための苦渋の決断だったんですよね。
顔立ちの変化について
鼻の整形については、マイケル本人も「呼吸や歌いやすさのため」と理由を説明して認めています。また、顎のラインが変わったり、長髪にしたりと、この時期に彼のビジュアルイメージは大きく変わりました。
ただ、病気のことや治療のことを世間が全く知らなかったため、「なんでこんなに別人のようになっているんだ?」という戸惑いが、悪意のある誤解へと繋がってしまったんです。
メディアの過剰報道と孤独な戦い

以前は「人種の壁を越えた天才スター」として好意的だったメディアの手のひら返しが始まったのも、まさにこの時期でした。
称賛の嵐から一転、彼を好奇の目で見る報道が過熱していきます。
神秘化戦略の裏目
マイケル自身も、少し現実離れした「ミステリアスなスター」を演出したいという気持ちがあったようです。
彼とマネージャー陣は、話題作りのために様々な噂を利用しました。
例えば、「老化を防ぐために高圧酸素カプセルで寝ている」という写真が出回ったり、「エレファント・マンの骨を買おうとしている」なんていう奇妙な話が飛び交ったりしましたよね。チンパンジーの「バブルス君」を我が子のように溺愛している姿も話題になりました。
タブロイド紙の暴走と「Wacko Jacko」
しかし、この話題作りはすぐにコントロール不能に陥ります。
タブロイド紙(ゴシップ紙)は面白がって話を何倍にも誇張し、彼をミステリアスなスターどころか「奇行を繰り返すおかしな奴」として扱うようになりました。
特にイギリスのメディアが使い始めた「Wacko Jacko(ワッコ・ジャッコ=奇人ジャッコ)」という蔑称は、マイケルが心底嫌がっていた酷い呼び名です。自分が純粋な商品として消費され、歪んだイメージを作られていくことに、彼は強い不信感と怒りを募らせていくことになります。
マイケルジャクソンのスリラーとBADの間の変化

心身の疲労やメディアからの容赦ない攻撃。こうした強烈なストレスと逆境は、マイケルの「音楽」にどのような変化をもたらしたのでしょうか。怒りや自立心が、彼をかつてないほど鋭く攻撃的なアーティストへと進化させていった軌跡をたどります。
攻撃的で硬質なボーカルへの進化

彼の歌声の変化は、当時の彼の内面を一番わかりやすく表しているかもしれません。
しなやかさから「打楽器」へ
これまでの彼の歌声といえば、ディスコのビートに滑らかに乗る、とてもシルキーでしなやかなトーンが特徴でした。「Beat It」のようなロックな曲でも、どこか親しみやすさがありましたよね。
ところが、この時期を経て発表された楽曲では、彼の声はまるで別人のように荒々しく、攻撃的になりました。
「アオッ!」「ダッ!」という短い叫び声や、うなり声、しゃっくりのような息づかい、おなじみの「ポゥ!」や「シャモン!」といったアドリブ。
これらはただの飾りではなく、声そのものをドラムやベースのように「打楽器」として使ってリズムを作り出す、すごいテクニックなんです。
ジェームス・ブラウンの魂を継承
このスタイルの裏には、彼が子どもの頃から敬愛していたジェームス・ブラウンの影響が色濃く出ているそうです。メディアから「中性的だ」と揶揄されたことへの反発からか、よりタフで男らしいストリートの感覚を打ち出そうとしたのも、ボーカルが鋭くなった理由の一つかなと思います。
クインシー・ジョーンズとの緊張関係と自立

アルバムの作り方自体も、以前とはガラリと変わりました。
自宅スタジオでの徹底的なデモ制作
マイケルは改築したヘイヴンハーストの自宅スタジオに最新のデジタル機材を揃え、信頼するエンジニアたちと一緒に、ひたすらデモ曲を作り続けました。
彼が目指したのは、硬質でメタリックな、今まで誰も聴いたことがないような新しいサウンドでした。用意したデモ曲はなんと60曲以上にも及んだそうです。
クインシー・ジョーンズとのぶつかり合い
その後、デモをスタジオに持ち込んで、名プロデューサーのクインシー・ジョーンズと一緒に最終的なアルバムに仕上げていくわけですが、ここで二人の間には強い緊張感があったと言われています。
もっとビートを強調して攻撃的にしたいマイケルと、全体のメロディや音楽的なバランスを大切にしたいクインシー。
結果的に、この時期に制作されたアルバムを最後に、マイケルとクインシーの黄金タッグは解消されることになります。これは単に仲が悪くなったからではなく、マイケル自身が「自分の音楽は自分でコントロールする」という強い意志を持ち、次のステージへ進むための必要なステップだったんだと思います。
幻に終わったプリンスとの共演構想

この時期には、当時のポップス界の超大物たちとの夢のような共演プランがいくつも持ち上がっては消えていきました。当時の彼がどれほど巨大な存在だったかがわかりますよね。
最大のライバル・プリンスとの冷戦
一番有名なのが、あのプリンスとのデュエット案です。
マイケルはタイトル曲「Bad」を、最大のライバルだったプリンスと一緒に歌いたいと考えていました。クインシーの仲介で実際に話し合いも持たれたそうです。
しかし、プリンスはこれを断ってしまいます。
後年プリンスが語ったところによると、曲の冒頭の「Your butt is mine(お前のケツは俺のものだ=お前をぶっ倒してやる)」という歌詞について、「どっちがどっちにこれを歌うんだ? 俺が君に歌われるのか? 君が俺に歌われるのもおかしいだろ?」と違和感を感じたのだとか。
二人の間には強いライバル意識があったからこそ、直接向き合って挑発し合うような演出は難しかったのかもしれませんね。
| 共演候補 | 結果と理由 |
|---|---|
| プリンス | 実現せず(歌詞への違和感とライバル関係による警戒心から) |
| バーブラ・ストライサンド | 実現せず(年齢差や楽曲のロマンチックな世界観との相性から) |
| ホイットニー・ヒューストン | 実現せず(彼女自身のプロモーション戦略によりレーベルが慎重になったため) |
サイーダ・ギャレットの大抜擢
結局、バラード曲「I Just Can’t Stop Loving You」のデュエット相手には、大物スターではなくサイーダ・ギャレットという女性が起用されました。
大物がダメだったから妥協したのかと思いきや、サイーダの優しく透明感のある声はマイケルの繊細な歌声と完璧に溶け合い、結果として素晴らしい名曲になりました。大物同士のエゴのぶつかり合いを避けたことで、純粋に曲の良さが引き立った大成功の例だと思います。
前人未到のスリラーの売上記録による重圧

この激動の期間中、マイケルを一番苦しめ、同時に奮い立たせていたものは何だったのでしょうか。
それは他でもない、自分が過去に作った「1億枚売る」という途方もないプレッシャーでした。
「スリラー超え」という呪縛
マイケルは自宅の洗面所の鏡に「1億枚」と書き込んで、毎日自分を鼓舞していたそうです。前のアルバムを絶対に超えるという執念が凄まじいですよね。
1987年に満を持してリリースされた新しいアルバム(BAD)は、同一アルバムから5曲が全米No.1になるという前代未聞の記録を打ち立て、約3,500万枚というものすごい売上を記録しました。なお、公式ストアでも『Bad』は1987年8月31日にリリースされ、『Thriller』から約5年後に登場したアルバムとして紹介されています(出典:Michael Jackson公式ストア『Bad CD』)。
なぜ過去の自分を超えられなかったのか?
それでも、7,000万枚以上売れたと言われる前作には届きませんでした。なぜでしょうか?
それは、時代が大きく変わっていたからです。
数年前はMTVが出始めたばかりの「音楽と映像の融合」が新鮮な時代でしたが、87年にはもう誰もが豪華なミュージックビデオを作るようになっていました。マドンナやプリンス、ボン・ジョヴィといった強力なライバルたちもひしめき合っていて、市場を独占できる状況ではなくなっていたんです。
それに加えて、タブロイド紙が作り上げた「奇妙なマイケル」というイメージが、純粋に音楽だけを評価する邪魔をしてしまった部分もあったのだと思います。
最も自己主張が強い作品の誕生

売上の数字だけで見れば前作に及ばなかったかもしれませんが、音楽的な評価としては全く違う見方がされています。
内面をさらけ出したアート作品
前作が「誰もが楽しめる、明るくて洗練された完璧なポップス」だったとすれば、この期間を経て生み出された作品は、「マイケルの怒り、孤独、パラノイア、そして社会へのメッセージ」がむき出しになった、とてもパーソナルで攻撃的なアルバムでした。
全11曲中、なんと9曲をマイケル自身が作詞作曲しています。
メディアへの不満をぶちまけた「Leave Me Alone」、世の中を変えるにはまず自分自身からだと歌う「Man in the Mirror」。
ここには、かつて周りの大人たちにプロデュースされていた可愛い青年の姿はありません。マイケル・ジャクソンという一人の人間が、自我を確立し、世界に対して堂々と自分の意見を突きつけた、最高にカッコいい瞬間が刻み込まれているんです。
マイケルジャクソンのスリラーとBADの間の総括

「マイケルジャクソン スリラーとBADの間」というキーワードで当時の歴史を紐解いてみると、この約5年間がどれほど凄まじい時間だったかがお分かりいただけたかと思います。
家族のもとを離れて巨大なビジネス権力を握ったこと。
事故や病気によって心と体に癒えない傷を負い、容姿が変化していったこと。
タブロイド紙の格好の標的となり、世界中から崇拝されながらも、同時に嘲笑を浴びる孤独な存在になってしまったこと。
この期間は決して「新曲が出なかった空白の期間」などではありません。
彼が抱え込んだ強烈なプレッシャーや世間に対する怒り、そして誰にも理解されない孤独感。そうした逆境のすべてがマグマのように溜まり、やがて鋭く攻撃的なビートとなって爆発したのが、あの時代に生まれた彼の新しい音楽だったのです。
映画などでこの期間がどう描かれるか(あるいは省略されるか)は分かりませんが、私たちがよく知る「孤高で少し近寄りがたい、ミステリアスなキング・オブ・ポップ」というキャラクターは、間違いなくこの苦闘の5年間の中で作られました。
次に彼の曲を聴くときは、ぜひこの時代背景を少しだけ思い出してみてください。きっと、彼の歌声に込められた「叫び」が、今までとは全く違った力強さで胸に響いてくるはずですよ。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
よくある質問:マイケルジャクソンのスリラーとBADの間について
事前の報道などによると、1984年のビクトリー・ツアーから1988年のBADツアーへ時間が一気に進む構成のようですね。
だからこそ、「その空白の間に何があったの?」とモヤモヤしてしまいますよね。でも実は、この期間にこそ、彼が孤高のキング・オブ・ポップへと変わっていくための重要な出来事や苦悩がギュッと詰まっていたんですよ。
いろいろな誤解がありますが、一番大きな理由は「尋常性白斑」という肌の色素が抜けてしまう自己免疫疾患と、その症状を均一にするための医学的な治療です。
加えて、ペプシCM撮影時の大火傷の治療や、呼吸を良くするための鼻の手術なども重なりました。「白人になりたかったからだ」というタブロイド紙の報道は、残念ながら事実とは全く異なるんですよね。
『BAD』も約3,500万枚という歴史的な大ヒットを記録しているんですよ!ただ、スリラーが発売された時代とは音楽市場の状況が大きく変わっていました。
80年代後半にはMTVが完全に普及し、マドンナやプリンスなど強力なライバルがたくさん登場していたんです。それに、メディアによる過剰なゴシップ報道が、純粋な音楽の評価を少し邪魔してしまった部分もあるかなと思います。
私なりの言葉で表現すると、ズバリ「自立と闘いの5年間」ですね!
家族やプロデューサーから精神的・ビジネス的に自立し、自分の足で立ち上がった時期です。同時に、病気やメディアからの心ない攻撃という強烈なプレッシャーとも闘っていました。その怒りやエネルギーが、あの『BAD』の鋭くてカッコいいサウンドを生み出したと言えますね。

コメント